ミャンマーと私ミャンマーとわたくし1.なれそめ 1999年〇月。 1年間の英国留学からほうほうの態で帰ってきた私は、 しばしの充電の後、就職活動を開始した。 新卒の頃との違いは、ぐんと間口が狭まったことだった。 それは今でも続いている。 昔は、やろうと思えば何でもできるような気がしたものだが、 年と共にその「やろうという気」の適応範囲も狭まる。 雇用側の許容範囲に引っかからなくなることは、言わずもがなだが.. そんな感じで、いつものとおりの苦戦就活生活を送っている時に、出合ったのが、某NGOだった。 実を言えばもともとNGOで働こうとは思っていなかった。 日本のNGOは小規模だし、給料もムニャムニャという話を聞いていたので、よもや就活をして雇ってもらえるものとは、想像していなかった。 だがしかし、いろいろ切羽詰って見てみると、応募をしている団体がちらほらと見つかった。 それで東京事務所勤務スタッフを募集していた某NGOの門戸を叩く。。っつーか、面接に行く事になった。 NGOに面接に行ったのはここが2件目で、さらに学生時代にちょっとしたアルバイト兼ボランティアをしてたことがあるので、私の知るNGOとしては3件目だった。 マンションの1室のようなこじんまりとしたオフィスで、数人の男女がPCに向かっている。 面接は階下のファンクションルームで行った。 上がり症の私は、常に面接前には一杯くらい引っ掛けてからでないと、調子が出ないと思っていたのだが、幸運にもこの日は引っ掛けずとも話しができた。(当たり前じゃ) 何を話したんだかよく覚えていないが、面接をしてくれた団体責任者の女性と男性が、「なんだかミステリアス~」と思った。 それで、数日待つうちに、某団体からまた事務所に来るようにという連絡があった。 おお、1次面接突破か? と思って、出向くと、 「いやぁ~、ねぴゅうさんにはミャンマーに行ってもらおうと思いまして」と言われた。 ……… え? 確か募集は東京勤務だったハズだが。 しかし私に選択の余地はなく、さらにそう言われてみると俄然行ってみたい気になってきたので、承諾した。 この青天の霹靂に対して、 「せっかく日本に帰ってきたんだから、もうちょっと日本にいたら?」と常識的な反応を返してくれたのは、学生時代の友人だけだった。 母に言うと、「あら、良かったわね」 妹が言うには、「あんた、日本にいてもやることないじゃん」 そして父はミャンマー関係の本をどっさり買ってきては、もうすっかり自分が行く気になって、ほくほくしていた。 そんな訳で、ほとんど誰にも止められることなく、 ミャンマーの地へ赴くことになった。 こうして、私の人生に「ミャンマー/ビルマ」が現れた。 2.初来緬 そんなわけで運良く(?)ミャンマー行きの切符を手に入れた私だったが、ことはそう順調に進まなかった。 ビザが下りなかったのだ。 日本からミャンマーに行って働くビザは問題なかったのだが、 先方のしかるべき機関からのしかるべき許可を得るのに、どても時間がかかるのが常らしかった。 そんなこんなで結局10ヶ月は東京で勤務することができた。 本部で仕事を覚えることが出来たし、本部のスタッフを知ることができたので、急に行くよりは良かった。 そして入社(入団?)してから数ヶ月後に、初めてミャンマーの地を踏む事になった。 こちらの日記では何回か紹介したことのある、ミャンマー北西部、ラカイン州のマウンドーというところに、日本から土木建築の専門家の方をお連れする、コーディネーター兼アシスタントのような仕事だった。 タイ経由でヤンゴン入りした時は、もう8時近かった。 空港には、ヤンゴンに来ていた日本人スタッフと、MMTというドライバーさんが迎えに来ていた。 空港から事務所までの道のりには、カバエ・パゴダがあった。ここが私が始めて目にしたキンキラパゴダだった。 当時、訳あって「NGOにあるまじき」豪華絢爛事務所を借りていたのだが、そこに着くと数人のヤンゴンスタッフたちが残業して私たちの到着を待っていてくれた。 この後、私の仕事面での大先輩(大先生?)となるDSSOは顔も身体もまるまるとした女性で、「ようこそヤンゴンへ」と手を握ってきた。 シャイで小柄でクリクリした瞳のSBA。 おきゃんで色白でおしゃれさんのCRL。 大人しいけれど、しっかりもののSST。 これから私の大切な仕事仲間となる彼女たちと、初めて挨拶を交わした。 --- 確かマウンドーに行く前に、1日ヤンゴンに滞在した。 その時は特にするべき仕事もなかったので、専門家のMさんと近所を散策した。 当時の事務所は、市街と空港の中間くらいにある、インヤレイクの近くだった。インヤレイク湖畔にちょっとした遊園地があったので、そこに行ってみることにした。 初め見るもの全てが珍しい。 噂には聞いていたが、本当に女性も男性も民族衣装のロンジーを着ているのには、ちょっと感動だった。 当時、おしゃれな女性はロンジーとそれに合わせたブラウス(ワンセット)をすてきに着こなしていた。都市部なので、それにプラットフォームシューズを履いている女の子もいた。 さて、何か面白いものはないかな?と物色していると、観覧車がある。多分、この辺りでは一番高い。見晴らしがいいかもしれないから乗ってみよう。ということになった。 今考えてみると、多分ボられた…。なんかチケット買った後、チケット係りが追いかけてきてサービスの水(2ボトル)をくれたことからも、か~な~りボられたのではないだろうか。 さらに、やっぱり昼のヤンゴンは暑かった…。観覧車の個室の中は、さながらサウナのようだった。が、見晴らしは良かった。 小さなシェダゴン・パゴダが見えた。 ヤンゴンはもう3回目という、Mさんがいろいろ説明をしてくれた。 次の日は早朝の飛行機に乗って、初めてマウンドーの地を訪れた。 3.初マウンドー こうして初のミャンマー入りを果たした私は、1日のヤンゴン滞在を経て、さらに秘境の地(?)マウンドーへと向かった。 マウンドーという土地については、このHPでも何度か紹介したことがあるが、バングラデシュとの国境沿いにある、たくさんのムスリム教徒と少数のラカイン人たちが住む、一時期大量の難民も出たことのある、豪雨地帯である。 その時の訪問の目的をものすごく簡潔に言うと、この地域に国連からの援助が入って、その一環として行われている地元民の労働力を使った小規模橋梁の出来を、日本から来た専門家の人に見てもらってなんか言ってもらおう。ということだった。(違いそう…) ヤンゴンから国内線に乗って、ラカイン州の州都シトウェ(旧アキャブ)に飛ぶ。 AAとBBという2つの航空便があったのだが、ドナーであった国連から「AAに乗るんだったら自己責任でお願いねvv」という通達が来るくらい、AAは雨季によく落ちる(!!?)らしかった。 そんな訳で、最初はAAに乗って飛んだ。(後でそんなことは言っていられなくなり、BBにも乗ったが。)シトウェにも事務所があり、そこのスタッフ(当時は3人くらいだったか?)と会う。ここで初めて友人となるおじさんNo.2のUDMNと出会ったのだが、彼の話はまた後で。 シトウェからブティドンまでは水路を取る。船に3つある。 1. 国連のモーターボート(所要時間3時間) 2. 商業ボート マリカ(所要時間4時間~) 3. スチーマー(所要時間9時間~13時間) 初めてのこの時は、確かモーターボートに乗せてもらった。 轟音を上げて、船体を斜めに傾けて川を上る。川の名前はマユ。時々海に開けた場所がある。ベンガル湾だ。川の両側は、むき出しだったり、葦が茂っていたり、蛇行したり。川底は浅いところがあったり、深いところがあったり。川というのは、本来こういうものなのだなあ。時々小船がプカプカ浮かんでいる。帆を張っている小船もある。杭から杭に網を渡して魚を取っている。水牛の群れが水浴びをしていたりする。 午後遅くなって、ブティドンに到着。 船着場に日本人スタッフ、これから私の上司になるZ氏が出迎えに来ている。 こちらに来る前から、いろいろないろいろないろいろな話を聞いていた噂のv Z氏だったが、会ったら普通の人間であった。(何を想像していたのか。。?) 挨拶もそこそこに、そこから車に乗ってマウンドーに向かう。 私がまろびつころびつ歩いていると、頭に籠を乗せたおばさんたちに「プスプス!(ちょっとちょっと)」とか「ラ!ラ!(行きなさい)」とか言われる。 (ブティドンではまだラカイン人が多いので、ラカイン語をよく聞いたが、ムスリム教徒の多いマウンドーではベンガル語(チッタゴン方言)が話されている。) 車で山越えをする。 とは言え、深山幽谷という程ではない。秩父とかに(ローカルな。。)あるくらいの山々である。でも時々野良象が出るらしい。使役されている象を遠目から見た。 所々に橋があるのだが、木造で古い。細いトンネルがある。トンネルを抜けるとすぐ崖で(!)、雨季には必ず事故が出るらしい。ここでだけは、絶対に運転したくないものだ…。 マウンドーに着いた頃は、もう夕暮れ時だった。 濃い紫色の空の下、天秤棒や鎌を担いで家路を急ぐ人たちがいた。 電気がないから、人々の生活はお日様に沿っている。 その日は、確かさくっと事務所兼ワークショップに顔を出して、すぐに当時二軒あったスタッフハウスの一軒に回収された。 場所が場所だけに、どこへ行くのにも車(4WD)だった。 最近新しく借りたばかりという新スタッフハウスには、上司のZ氏と彼のかわいらしいタイ人の奥さんが住んでいた。そこに、もう一人の上司のY氏と、専門家のM氏と私で泊めてもらうことになっていた。 お手伝いさんの心づくしのローカル料理を食べて、食後は大きなテラスで寛いだ。 雨季の終わった頃だったのか、雨は降らなかったが虫がすごかった。普通にしていてもシャツの間から羽虫が入ってくる。 暗くて分からなかったが、家の前、道路を挟んだ反対側には、何かの店があるらしかった。ポツポツと蝋燭のオレンジ色が見え、暗闇の中からもザワザワザワザワ話し声が聞こえる。 スタッフハウスでは、ディーゼルを使って発電機で電気を灯していたので、その明かりを求めて、この辺でお茶をしているらしかった。 寝る時間になると、発電機も消されてしまうので、本当に真っ暗だ。 蝋燭の光で本を読んだら、目が痛くなった。 夜は、こんなに暗くて寒いものだったのかと思った。 でも月はこんなに明るくて、星はこんなにけぶるように見えるものだったのかとも思った。 4.橋とラム こうして初めてミャンマー入りし、さらにマウンドー入りした私は、確か同地に4-5日滞在したのだったと思う。 う~ん、もっと短かったかな?よく覚えていない。 毎日毎日、炎天下の中を日本から寄付してもらったという(だがもうすでに壊れかけている)4DWに乗って、造りかけの橋だの道路だのを見に行った。 この時は流石に緊張していたのか、一体何を見たのかよく覚えてないのだが、その後同地に来た時に、新しく橋や道路を作って整備されつつあるその一本の道をずーっと歩いて見せてもらった。 歩いていると突然道に亀裂が入っている。それも結構深い。丸太棒が渡してあるが、滑りやすいし、これでは大きな荷物を運んだり、子供が学校に行ったりするのも大変だろうと思った。 真直ぐでガタガタのない道というのは、実は大変なものだったのだなあと思った。 ちなみにこの道は、その昔アジアを一つに繋ぐ「アジアハイウェイ構想」(だっけ?)の一部として考えられていたらしい。実は、ラカイン州都シトウェからバングラデシュのコックスバザールまで続く一本の幹線道路の一部だという。 忘れ去られたその道が、地元の人たちの手で少しづつ開発されているというのは、一部の人々のロマン心をくすぐっていた。 さてこの時初めて、当時橋梁建設の総監督をしていた、そしてこれから私のおじさん友人No.1となるUAKWと出会った。 彼はなんかニャーニャーしたしゃべり方をするフレンドリーな人物なのだが、UNVとしてアジアやアフリカで活躍してきた優秀な建築技術者でもあった。 昼間はタフに現場を廻り、夜は必ずや飲んだ。 ミャンマーの真の飲兵衛(誰?)が飲むものといえば、マンダレー・ラム。これで決まりである。 彼の別名をマスター・オブ・マンダレー・ラムと呼ぶが(今、名付けた)、彼の武勇伝&結末はまた別の話としたい。 話がそれた。 そんな感じでミッションを終え、多分最後の夜にUAKW並びに他のエンジニアたちに招かれて、当時マウンドーの町でたった1軒冷えたビールを出してくれるレストラン、川岸にあり対岸にバングラを臨む「ゴールデンジョー」に飲みに行った。 専門家のM氏は、この機会を大変喜んでこう言った。 「いや~~、技術者っていうのは、飲まないとダメなんですよ!」 何がダメなのか良く分からないが、ともかく日中炎天下を外で動きまわるキツイ仕事をして、ようやく一日終ったら、疲れた身体にアルコールを流し込む。その喜びが共有できる、技術者同士で飲めば、もう言葉なんて必要ない! と、いうことらしかった。 実際、もう通訳はいらなかった。 なんだかとても楽しそうに飲んで、食べて、騒いだおじさんたちが、帰る間際に一緒に踊りを踊っていたのを目撃した。 (もしかして別の時だったかもしれないが。) こうして、私のミャンマーでの初仕事は幕を閉じた。 帰国後、数ヵ月後にまたミャンマー入りし、その時は1ヶ月近くヤンゴンに滞在し、前任者からの引継ぎを受けた。 その後また帰国し、ビザが整うのを待ち、最終的にヤンゴンに赴任したのは、2000年4月のことだった。 (つ~づ~く~) ‐‐‐‐‐‐ その5:ヤンゴン派遣の巻 NGOで働き始めてから10ヶ月程経った頃、長らくかかったビザがようやく降り、満を持してのヤンゴン派遣となった。 ミャンマーの首都であるヤンゴンは、黄金に輝く巨大仏塔(パゴダ)シェ・ダゴン・パゴダで有名だが、私が赴任した当時はまだ高層ビルなども少なく、どこかノスタルジックな雰囲気を持つ街だった。 その頃のオフィスはなぜか新高級住宅街にあり(ある程度高級な場所にないと、電気・電話などに苦労することになる)、オフィスそのものも3階建ての広々したものだった。しかしいかにも「凝り過ぎてしまいました」という感じの設計で、使い勝手の悪い無駄なスペースがやけに多かった。 例えば2階は日本人スタッフの宿泊施設として使っていたのだが、部屋数は3つしかないのに、ダンスでも踊れそうな広~いスペースが中央にど~んとあった。3階は吹き抜けの屋根裏部屋になっていた。 そこで私何をしていたかと言うと、事務所の運営・管理、庶務、人事、予算・財務関係、調達・物流、広報、渉外、プロジェクトの調整業務、予算管理、交渉、執行決済、監査準備、事業計画書・報告書作成、ドナー対応…なんかをしていた。 こうして書くと大したことのようだが、ひたすらローカル・スタッフに言われるままに雑用をしていた。だけ。 やることなすこと全て始めてだったが、一緒に働いたローカル・スタッフがああだこうだといろいろ教えてくれた。 DSSOは、当時ヤンゴン・オフィス全般を仕切っていた女性マネージャーで、真ん丸い顔と真ん丸い体、大きな声を張り上げて、男勝りに他のスタッフを采配していた。 彼女からはアドミの基本やら、ミャンマーで働く上で注意すべき点などを教えてもらった。それでもうっかり地雷を踏みそうになった私を叱りながらフォローしてくれた、仕事上での大先輩である。(彼女はその後、お金を溜めてアメリカに留学した。) 時々オフィスできゃらきゃら笑い合っていたのは、実務をこなす3人娘。 おしゃれなセクレタリーのCALは、カチン人で、一見日本人のようにも見える。 細くて黒眼の大きなSBYは、真面目で親切なアシスタント・アドミ。 会計のSSTは責任感が強く、締め切り前には休日出勤してがんばっていた。 あの頃は(まだ)痩せててハンサムさんだった男性スタッフKoAZY。が…今はすっかり貫禄がついた。 当時かわいい奥さんに赤ちゃんができてニコニコだった曙…もとい、KoTS。 話上手で面白かったドライバーのMMT…。彼は後に残念な事件を起こす。 MMTの奥さんでハウスキーパー兼コックのSSと、クリーナーのMM。彼女達のお陰でビルマ語が上達した(!?)。 時々病気になっていたウォッチマンのUCSと、彼の甥で前任者のKo..(忘れた) スタッフは時々増えたり減ったりしたが、最初はこの10人のスタッフたちと仕事を始めた。 仕事中は皆和気藹々としていたが、さすがにヤンゴンは都会なので、他の現場と比べると働き方も都会的だった。 赴任したばかりの頃は友達もいなかったので、スタッフに遊んでもらったり、皆が帰る送迎バスにくっついて行ったりした。甘えん坊上司…ありえねー…。 (つづくやも。。) <その6> ミャンマーに派遣になったのが、2000年の4月。 そして2000年の6月に、"運命の”招待状が事務所に届いたのだった。 曰く、 「日本大使館 自衛隊記念日パーティ」 …自衛隊記念日!!?? そんな記念日があるとは、日本国民を20年ウン年やってきた私には初耳だった。 40ウン年やってきた上司にも初耳だったらしく、 「ねぴゅうちゃん、このパーティに行って、自衛隊記念日ってなんなのか探ってきてよ。」 と、お気軽に頼まれてしまった。 自分で行ってください。。ていうか、なんかNGOと自衛隊記念日って合わない感じだし(偏見)、めんどくさいし、そういう場は行ったことないけど苦手だから行かないよ~ん、と思って、招待状を書類の奥深くに隠してしおいた。 ところが、直前になって東京から来た上司か書類の山を探り(探るな。。) 「おやおや、こんなパーティがあるんですね。ねぴゅうさん、行ってきてください。」 ということになって、出席は免れないことになった。 そんなわけで、2000年6月○日、私は初の大使館デビューを飾った。 その日は白のロンジーのワンセット(上下セット)を着て行った。 大使公邸に入ると、ずらりとエライ人(?)が並んでいて、いちいち挨拶をする。 中に入ると、品良く整えられた広間に…、ああ、誰も知っている人がいない… だから着たくなかったんだよ~~(T△T) という訳で、一目散に寿司&焼き鳥コーナーに走る。 (パーティ中、一歩もこの場を動きませんでした。) そしてとってもおいしい赤ワインもゲット。 それにしてもほんとーに誰も知っている人がいない。。 と、思ったらかろうじて知っている人がいたので話しかける。 しかしかの人は後に出世して出世してしょうがないくらい偉くなった人で いきなり焼き鳥片手のほろよい気分ちゃんに話しかけられて面食らっていた様子。 (忙しかったんだよね。。) 他の面倒見のいい人に紹介されたので、「自衛隊記念日」なるものの意味を聞くと、この記念日は在外大使館にのみ存在する記念日で、他国の「軍隊記念日」パーティのお返し的に行っているとのこと。 指し示された先には、ドロップみたいに色とりどりの勲章(?)をいっぱいつけた武官が挨拶に余念がない様子。 所在なくて、寿司コーナーに戻る。 同じく所在なさげなイギリス大使館の女性と話す。 しかし話題がない。 彼女を見つけて、ミャンマー人オフィサーがやってきて挨拶などを交わす。 すると向こうから、ミャンマー人オフィサーらと「ミンガラーバー!ミンガラーバー!」と、躁的に握手を交わしつつこちらへ向かってくる短躯あり。 彼はイギリス人の彼女と知り合いだったらしく、彼女と挨拶を交わすと "How do you do? Are you single?" と、言った。 おいおい、しょっぱなから、はじめまして、あなたは独身ですか? かよ!!? と、思ったが、後で聞いたらそれは「あなたは一人で来たのですか?」 の意だったらしい。 彼のまなざしははっきり言って、気がある光線100%で、 私は心底やべぇと思ったのだったが、 これがわたくしと現夫の出会いの一幕であった。 <番外編> この話ももう5年も前の話になる。 両親がミャンマーに勤める私のところに遊びに来たことがある。 旅行をするには気候のちょうどいい、乾季の12月ごろのことだった。 私たちは、数日間でバガン、シャン州を巡ってヤンゴンに帰ってきた。 旅の最後日、両親の帰国前に母と二人で、その当時ヤンゴンに初めてできたショッピングセンターまで買い物に行った。その名も…忘れた。コカイン・ショッピングセンター?歩いていける距離だったので、行きは歩いて行った。 なぜかいろいろ食料品などを買い込んでしまって、帰りはいつもなら歩いていたのだが、母をめすらしい乗り物に載せようかと思って、出入り口あたりに待機していたサイカーを雇った。サイカーとはトゥクトゥクのこと。しかしバイクではなく自転車の後ろに前向きと後ろ向きに座れる小さな荷台が付いている。 ところでヤンゴンの街は、今ではバイクでさえも規制されているが、結構いろんなものが規制されていて、このサイカーも限られた道路でしか営業してはいけないらしかった。事務所からショッピングセンターまでの一本道はめずらしくもサイカーの通っていい道だった。 そんなわけでサイカー一台を雇い、大きなおしりを2つ押し込み、且つ荷物もたんと持っていたのだが、きっちり値段交渉して値切るのも忘れなかった。 距離はそんなにないのだが、帰り道はすこし上り坂になっていた。しかもこの炎天下。しかも決して軽くない身体と荷物。 日に焼けて痩せたおじさんは、ゼーハー言いながらサイカーを漕いだ。 交渉額は25チャット。当時の換算額で4円くらいだった。(5円くらいを4円くらいに値切った。。)母はおじさんにチップをあげるつもりで大目におカネを渡したのだが、おじさんは胸ポケットからぼろぼろのおカネを取り出しておつりをくれた。私たちはいらないいらない、とっとけとっとけ、とジェスチャーするのだが、おじさんもいやいや、いいんだいいんだ、とジャスチャーを返し、結局おつりをくれるとさわやかにサイカーにまたがり去って行ってしまった。 後にも先にもあんなにチップを固辞されたのは初めてであった。(チップという習慣を知らなかった?) この小さな出来事は母をいたく感動させたようだった。もともと旅行中にミャンマーのことを気に入っていたようなのだが、この最後のパンチにやられて、ここにまたミャンマー狂が一人誕生したのだった。 これももう5年も昔の話だ。 今では随分状況も変わっただろう。社会は変わるし、人の心も変わる。 それでもやっぱりミャンマーのことを思う時、おじさんとぼろぼろのおつりのことを思い出す。 名前の表記について:ミャンマーでは名前の前に敬称をつけるのが一般的。 男性→U(う) 若い男性→Ko(こ) 女性→Daw(どう) 若い女性→Ma(ま) 文章中の名前表記は敬称を含む略。(DSS→Daw Soo Sooなど) ジャンル別一覧
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